アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(340)室伏広治「ゾーンの入り方」

(今回は岩波新書ではない、室伏広治「ゾーンの入り方」に関する文章を例外的に「岩波新書の書評」ブログに載せます。念のため、室伏広治「ゾーンの入り方」は岩波新書ではありません)

私は前からスポーツ選手がよく口にする「ゾーン体験」というものに興味があり、ゾーン体験の内実やゾーンへ入る方法に相当な関心を持っていた。室伏広治「ゾーンの入り方」(2017年)は、アテネ・オリンピックで金メダル、ロンドン・オリンピックで銅メダルを獲得し、2016年に現役引退した男子ハンマー投げ選手である室伏広治の著書であるが、本書は「看板タイトルに偽(いつわ)りあり」で肝心の「ゾーンの入り方」は紙面を割(さ)いて何ら詳しく説明されておらず、その代わりに室伏考案の「新聞紙を片手だけで小さく丸めるエクササイズ」とか(笑)、室伏広治以外の一般の人がやってもあまり参考になりそうにもない室伏独自のトレーニング法の紹介があったりして肝心の「ゾーンの入り方」の詳しい方法(メソッド)解説ははぐらかされ省略されてしまっている。よって室伏広治「ゾーンの入り方」に書かれていない点も押さえながら、「ゾーン体験とは何か」や「どうすればゾーンに入れるのか」を以下、私なりに書いてみる。まず「ゾーン体験とは何か」については次のように定義できる。

「ゾーン体験とは、人間主体が取り組むべき一つの事柄に絞られた(つまりは「ゾーニング」)極度の超集中状態にあり、他の思考や感情を忘れてしまうほど没頭の集中を体験する特殊な覚醒の状態に入ること」

「ゾーン体験」は「フロー状態」と呼ばれることもある。究極の集中状態であるゾーン体験はスポーツの競技場面にて顕著であるから、スポーツ選手が語る本番競技中にゾーンに入った体験談をいくつか挙げてみる。

「あの日の感じは忘れられません。リラックスしているのだけど、最高に集中していて、余計な力みが全くないんです。試合前の練習でも、ボールはクラブのど真ん中にスコーンと当たるんです。今日は調子いいぞ、と、ワクワクしていました。ゲーム中は何の不安も緊張もなく、心と体が完全に一体化していて、ただ無心にゴルフをやっているだけ。勝手に体が動いているような感じでした。正直言って、スコアも気にならないくらいでした。そして、自分でも信じられない好成績が出たんです」(ゴルフ選手が語るゾーン体験)

 「すべてが流れるように進み、相手の選手の動きも面白いように分かりました。風の動きや観客の声、審判の姿。試合に100%集中しているにも関わらず、いろいろなものが目に飛び込んできました。どこか別の場所から会場全体を見降ろし、自分の動きをコントロールしているかのような錯覚さえありました」(テニス選手が語るゾーン体験)

「自分が自転車と完全に一体化していて、まるで自動操縦で走る自転車に乗って滑るように進む風景を眺めている、というような感覚でした。でも、ぼおっとしていたわけではないのです。ギアの状態や、自分が今何番目にいるか、他の選手がどう動いているかといった情報は自然に把握できていました。レース終盤、ラストスパートをかけたのですが、苦しいという感覚もなく、すっとスピードを上げていくことができました」(自転車選手が語るゾーン体験)

これらスポーツ競技時に各アスリートが体験したゾーン体験から、その特徴を一般化して列挙すれば次のようになろう。

「リラックスしているのだけれど集中しており、余分な力みや無駄な動作が一切ない自然体である。目先の小さな勝ち負けや優位と劣勢の損得が気にならない。一種の没我の状態で場合によってはゲームの勝敗すらも超越した、自身の中での小我を排した恍惚状態にある。自分の思うように自身の身体や心、周りの状況が推移する。心と体が完全に調和し一体化しているような無我の境地である。ゆえに自分と対象(道具や対戦相手や審判や観客や天候ら)とが一致した心持ちを感じることができる。確かにぼおっとした、どこか恍惚とした意識なのだが、しかし夢遊状態ではなく、高みから自分を含む状況全般を見てすべてを俯瞰(ふかん)しているような、細かな部分と同様に物事の大局まで明確にはっきりと把握でき、かつ前の状態を正確に記憶して即座に思い出すことができると同時に、先の状況も予測して完全に読めてしまい当たり前のように余裕を持って対応できる。身体が自然に反応して全く疲れを感じることがない。限界なく高度で安定したパフォーマンスを継続してできる、いわゆる『ハイな』覚醒状態に没入している(ランナーズハイなど)」

では、こうした究極の集中状態であるゾーンに入るためには、どうすればよいのだろうか。「無駄な雑念を払って、とにかく集中すること」というような昔からよくある根性論や抽象論の無方法へ逃げることなく、「ゾーンの入り方」について幾つかの観点からヒントとなる具体的方法を挙げてみる。以下の(1)─(4)は昨今のスポーツ心理学やメンタルトレーニングでは、それぞれ「レゾナンス」や「インナーゲーム」や「イメージ」や「バイオフィードバック」と呼ばれているゾーンに関する各項目である。

(1)ゾーン体験とは超集中状態のことであるから、何よりも自身の中で極度に集中した状態を作るよう意識し絶えず自分に働きかける。その際、究極に集中するためには、(A)自身の身体動作や相手の動き、状況の推移をリズムで規則的に捉えるようにする。(B)過ぎ行く過去の瞬間を残像イメージにて一枚ずつ順次残して記憶していく要領で瞬時の視覚を積み重ねていく。

(2)頭の中で考えるより前に身体を動かす自然に頼る。思考を最小限にして直感と本能で自然に身体が動き反応できるレベルにまで自身を到達させる。いちいち頭で考えたり言葉に変換したりする次元のレベルでは反応速度や対応能力として確実に遅すぎる。ゾーン体験は言葉に頼ったり言語を介してはならず、そもそも頭で考えてはいけない。パフォーマンスそのものへの取り組みに、例えば言葉による目標設定や進行手順の確認や行動動機の説明や事後にもたらされる賞罰設定や現状に関する言語を介しての多幸感の感情確認など、絶対にやってはいけない。ゾーンの秘訣は考えないことだ。思考よりも直感と本能である。なぜならゾーンは無意識下の情報処理であり、言語による意識的な処理の限界を超えたところでの視覚・聴覚・触覚の情報を瞬時に判断処理することだから。ゆえに自動的に瞬時に直接的に流れるように対応できて、自身と対象と状況の全てにコントロールが行き渡っている。

(3)いわゆる「デジャヴュ」(既視感)を利用することで、あらかじめの想定や展開予測が重要な各場面にてでき結果、即に反応行動できる。前にどこかで経験したことの場面や文脈に重ねてスムーズに反応処理する、もしくは未経験で初めての不利な状況にあったとしても前に似た状況を想起し、それに重ね合わせて柔軟に対応できるようにしておく。そのためには過去のあらゆる状況場面とその時の自身の感覚・対応を暗記し記憶して、いかなる状況であっても即座に思い出せるようにしておかなければならない。

(4)常に現状の把握と理解をやる。自身の体内の心拍、血流、筋緊張ら現状を感受し知っておく。と同時に刻々と変化する自身と対象との間合いや自分からの死角(見えないもの)をあえて「見る」ような意識をもつ。複雑で妙な言い方だが、ゾーン体験においては「見ていないけれど見ている」のである。これはわざわざ全力でそうまで気にして対象や細部を凝視してはいないが、しかし死角も含め完全に見切れていて何気に観察し絶えず見ており、対象の動きや細部の変化があれば即に認知して見逃さない。同様に「聞いていないけれど聞いている」や「気にはしていないが気になっている」というのも、これと同じ原理である。

室伏広治「ゾーンの入り方」にて室伏は再三に渡り釘を刺して注意を促しているが、ゾーンは、あくまでも事前の練習による技術の習熟や厳しい反復訓練を通し身につけた技能が、試合本番当日でも場の雰囲気や周囲のプレッシャーに呑(の)まれず何ら萎縮することなく、普段通りの自然体で発揮できるスムーズさのレベルの話である。事前の練習や日常的施行にて一度も成功したことのないような当人にとっての高度な技術や複雑な動きが、ゾーンの覚醒状態の入ったからといって本番当日にその場で突然に出来るような、ゾーンとはそういった超絶万能なものでは決してない。事前に普段からできないその人の能力をはるかに越えているものは、いくらゾーンの超集中状態に没入していてもできない。この意味で「ゾーン体験」や「ゾーンの入り方」に対する見当外れな過度の期待は慎むべきであることも、ここで幾重にも強調し確認しておきたい。

今日では一流のデキるスポーツ選手は試合本番時に、いかにスムーズに安定して確実にゾーンに入れるか、かつゾーンの状態を切らすことなく継続させ維持できるかの「ゾーンの入り方」を日々研究し、そのための科学的な方法訓練をなしている。男子ハンマー投げにてオリンピック金メダリストの室伏広治が目指すような相当に高レベルなアスリートのゾーンではなくても、一般人の私達が日常の勉強や仕事で究極の覚醒状態であり超集中の没我の状態にあるゾーンに近い状態に随時意図的に入ることができれば、その人の人生において相当に有益である。そのため昨今のスポーツ心理学やメンタルトレーニングにおけるゾーン理論は、スポーツ選手ではない一般の人が学び知っておいても損はない。

また現代のスポーツ科学分野からのゾーンに関する研究に加えて、ゾーン理論は昔からの哲学や心理学でいえば私の知る限り、例えばベルクソンの「純粋持続」やボルノウの「練習の精神」の概念に該当の事案だと思われる。よって「ゾーン体験」や「ゾーンの入り方」をより深く知って自身の日々の生活実践に生かすには、それらベルクソンやボルノウの哲学・心理学の著作も日頃から熟読しておくとよいかもしれない。