アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(39)竹田青嗣「哲学ってなんだ」

岩波ジュニア新書の竹田青嗣「哲学ってなんだ」(2002年)は、副題が「自分と社会を知る」であり、岩波ジュニアで若い読者向けのため分かりやすく平易に「哲学とは何か」を論じている。例えば哲学の「方法」について、次の3つを指摘する。

(1)物語を使わず「概念」を論理的に使って世界を説明する。(2)「原理」(キーワード)を提出する。(3)つねに一からやりなおす。

(1)は「非物語」で宗教的神話性を排することであり、哲学は文化や民族や宗教を超える開かれた思考である。(2)の「原理」とは絶対的な真理ではなく、広く妥当性のある原理の下で世界を説明する普遍的理解の方法、つまりは「原理思考」を指す。(3)は常に始源から根源的・懐疑的に考え尽くそうとする哲学的態度であり、必ず先行思想や既成概念を吟味し批判して、そこから「再出発」の姿勢である。

「近代の哲学者たち」の章では、近代社会の基本理念は「市民社会」にある、しかし19世紀以降、市民社会は「国民国家」と「資本主義」という大きな新しい矛盾を生み出し、この矛盾克服のため近代哲学批判としてマルクス主義が登場するあたりの記述が読んでいて私にはぐっとくる。

竹田青嗣は「はじめての現象学」(1993年)や「自分を知るための哲学入門」(1993年)を執筆した人であり、易しく分かりやすい哲学解説に定評のある方だ。ただ私が昔から気になるのは、この人が哲学を解説する動機、分かりやすい入門書を書いて人々に哲学を教える意図が幼稚すぎる。本書でも「わたしは二0歳代の後半かなり困っていて、考えることがつねに頭のなかで空転し、しまいにある奇怪な悪循環的な考えの袋小路に入り込んでしまって…自分はたしかに、親や家族の期待にも応えられず、経済的な自立もままならず、人間として何か意味あることもできず」と自身の不安や社会に適応できない苛立(いらだ)ちがあり、悶々(もんもん)としていて、さらには竹田が在日で日本社会から疎外されている感があって、だが「そんなときに哲学書を読んでみたら自分というものが分かって、社会も冷静に落ち着いて広く見られるようになり自分が救われた」とする前口上を入れてから、この人は哲学史や現代思想を語り始める。

色々な不安や悩みがあって苦しんで生きている人は確かに非常に気の毒とは思うが、そうした自身の生きにくさや不安や疎外感の解決の手口として哲学を語るのは正直、私はどうかと思う。そもそも古今の哲学者のプラトンやアリストテレス、デカルトとカント、ヘーゲルにマルクス、いずれも「自己が不安で自信を持てず、社会と折り合いが付かず自分が生きづらい」など誰一人そんな幼稚な理由動機で哲学をやってはいない。もともと、そんな幼稚な哲学者は存在しない。もちろん、誰でも自己不安や疎外感に打ちのめされたり、他者から承認・評価されなかったり、うまく社会参加できなくて悩んだりすることはあるかもしれないが、私にも人並みにその手の悩み事はあるが、成熟した大人は、そうした内面の不安や悩みの類(たぐ)いを所構わず吐露(とろ)し開陳して誰に対しても大っぴらに語ることなどしない。

竹田は哲学の入門や解説書の類いを書くとき、常にこの手の「不安で劣等感に苛(さいな)まれていた自分なのに哲学を学んでから視界が開けて救われた」の口上を入れてから哲学を語り始める。ソクラテスが言うように哲学の意味が「ただ生きているということが大切なのではなく、よく生きるということが大切なのである」としても、最終的な着地の落ち着き所が「不安や社会に適応できない自分の苛立ちの解消に哲学が有効」といった、本来の「よく生きる」が非常に卑小で矮小化された形で小さくまとまってしまう。

加えて、この人の古今の哲学思想解説は悉(ことごと)く全て問題解決型の思考解釈である。氏における西洋哲学理解の最終的な着地の落ち着き所が、「不安や社会に適応できない自分の苛立ちの解消に哲学が有効」といった問題解決のための格好なツール(道具)に矮小化された形で小さくまとまることに見合って、哲学思想がその時代ごとの問題解決のための有用な道具になってしまう。竹田いわく、例えば「ホッブズは国家権力を制御して戦争回避のために契約論の哲学を志向した」、例えば「フッサールは『客観性』の名のもとでの信条対立の不毛さを乗り越えるために現象学を創始した」旨を竹田は至るところで繰り返し述べているが、本当なのか!?ホッブズもフッサールも私は読んだが、私には竹田の哲学解説がにわかに信じられない。歴代の西洋哲学が問題解決の功利的観点からなされるのではなくて、そうした現実功利から外れた信仰や世界観構築の次元の問題として、より誠実に突き詰めて各人により考え続けられてきた懐(ふところ)の深さの「哲学の本領」は着実にあるはずだ。

竹田青嗣、西研、橋爪大三郎ら各氏は、もともと哲学研究や思想史研究の研鑽(けんさん)を本格的に積んでいない。この人達は以前に小阪修平に誘われて、イラスト図式活用や分かりやすいレジュメ作成にて難解な哲学思想を易しく伝える文筆の書き仕事から出てきた人達である。いつも読者に「難解な」哲学思想を「なるほど、この解説を通して初めて分かった」と言わせて読者から満足の言葉を引き出すために奔走している所が昔からあった。そのため彼らの哲学仕事は元からの出自の悪い癖が出て、「入門」や「完全読解」など「分かりやすい解説で使える哲学」の功利の面にいつも安易に流れてしまう。

特に竹田は弟子筋が多く、竹田のものと同内容な「自己啓発な哲学啓蒙書籍」(?)にて近年、竹田青嗣の後継が多く著作家デビューを果たしている。こうした竹田青嗣を始めとする「自分の存在不安を打ち消すための哲学」だとか「個人が社会参加を果たすために有効な哲学」だとか「現代社会の問題解決のために有用な哲学」だとか、分かりやすくて使える功利の哲学講義(もどき)も「いい加減に鼻についてきた。いよいよ来るところまで来た。そろそろ限界なのでは。この辺りで一度、見直すべきでは」という思いがする。竹田青嗣の弟子は、この先も師匠の竹田と同じような、いつも読者に「難解な」哲学思想を「なるほど、この解説を通して初めて分かった」と言わせて読者から満足の言葉を引き出す「入門」や「完全読解」や「生きるための哲学」の竹田の再生産な書き仕事に、そのまま身を沈めておいてよいのか?

コイツらは神的信仰や自己認識や世界観の構築といった、その時代のその時々の人間社会での相対的適応の功利からはみ出す本来の哲学の本領を何ら知らない。哲学をナメすぎである。

竹田青嗣の最大の問題は氏が一時期、作り出した「現象学ブーム」ともいうべきもので、竹田のフッサール現象学の解説本を読んでフッサールを分かったつもりになるのは相当に危険だ。氏のフッサール読解の現象学講義の一連の著作は、あくまでも竹田による過剰な思い入れと思い込みの日本人的素朴実感論の独我的解説が主で(「アガペー」とか「エロス」とか)、時代的に新興の自然科学と心理学に押され旧来的な哲学の「ヨーロッパ諸学の危機」を痛切し、従前の強固にある西洋哲学史伝統の形而上学の本丸に果敢(かかん)に斬り込む「事象そのものへ」の野心ある本来のフッサールとは全く違うので、正しく現象学を学びたい人は竹田青嗣などに引っ掛かってダマされることなく、竹田執筆以外でのフッサールの現象学に関するきちんとした書籍を真面目に読むことが望まれる。