アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(313)吉見俊哉「平成時代」

時代が「平成から令和へ」移り変わる際に、これまでの「平成」の日本社会の歴史を振り返り総括しておこうとする企画の書籍が各出版社から多く出された。岩波新書の赤、吉見俊哉「平成時代」(2019年)は岩波書店による、そうした企画の内の一冊である。

本書は「平成時代=失敗」と規定し、日本の平成社会を斬って斬って斬りまくる誠に刺激的な新書だ。本論には「平成という失敗」や「平成は失敗したプロジェクトだった」の指摘、平成の30年間(1989─2019年)をして「失われた三0年」とするような記述が多く出てくる。しかしながら、それは外部から無責任に傍観的に「平成の日本は失敗だった」と言い募(つの)って、著者がただ悦(えつ)に入りたいからではない。そこには平成以降の新たな時代を生きるに当たり、「平成の失敗から学ぶ」ことが何よりも重要であって、そうした「失敗からの学習」を次世代の成功に生かすべきとする、次のような著者の並々ならぬ強い思いに支えられていた。

「(平成終焉以後の)この困難な時代を本当に克服するには、…そこにあった無数の問題、そして平成時代に顕在化してくる数々の失敗やショック、社会的な限界に目を凝らし、それらの『失敗から学ぶ』ことが何よりも必要である。もちろん、『失敗から学んだ』からと言って、それだけでは未来は開けてこない。…しかしそれらの出発点は、『成功』の再演ではなく、『失敗』からの学習でなければならない」(「世界史のなかの『平成時代』」219・220ページ)

本書にて著者は「平成という失敗」を(1)経済、(2)政治、(3)社会、(4)文化の4つの分野に分け、かつ以下のような「四つのショック」の契機により、「平成時代」を描き出そうとする。前者の4つの分野は本書にて各章を構成する個別の領域をなし、後者の「四つのショック」は「平成時代」の時間経過の区切りをなす。

「さて、『平成』の三0年を日本の段階的な衰退過程と捉えるなら、…第一のショックは一九八九年に頂点を極めたバブル経済の崩壊であり、第二のショックは九五年の阪神・淡路大震災と一連のオウム真理教事件であり、第三のショックは二00一年のアメリカ同時多発テロとその後の国際情勢の不安定化であり、第四のショックは、もちろん一一年の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故である」(「『平成』という失敗」21ページ)

本書の概要をより詳細にいって、「第1章・没落する企業国家─銀行の失敗・家電の失敗」で山一證券の「自主廃業」や半導体市場での日本の惨敗ら、経済分野での「平成の失敗」が取り上げられ、「第2章・ポスト戦後政治の幻滅─『改革』というポピュリズム」では、日本新党ブームや選挙制度「改革」の顛末や小泉劇場型政治や安倍政権の「官邸主導」の強権政治ら、政治分野での「平成の失敗」が批判的に振り返られる。さらに「第3章・ショックのなかで変容する日本─社会の連続と非連続」の中でオウム事件とメディアのあり様、二つの大震災と福島原発事故、さらに非正規雇用の拡大による労働者の生活基盤の崩壊、それに伴う格差の制度化(日本の階級社会化)と超少子高齢化社会への加速の問題が、社会分野での「平成の失敗」として考察される。そして「第4章・虚構化するアイデンティティ─『アメリカニッポン』のゆくえ」にて、映画や音楽やアニメやコスプレやネット社会の到来と本格化など、文化分野での主にサブカルチャー批評を介して「平成の劣化」が論じられる要旨となっている。 

しかしながら本新書での著者による考察は、そうした「平成の失敗」の数多くの羅列や、それら「失敗」から学ぶべき教訓と対案の主張に終始しない。「平成」の失敗の正体にまで掘り下げて迫る。すなわち、「平成」の失敗は「昭和」の成功とのコントラスト(対比)により強く実感されるだけの錯覚でしかなく、実は多くの日本人が戦後日本の「昭和」の多幸症的な記憶ゆえの捏造(ねつぞう)から未だに抜け出せていないだけなのではないか。つまりは「平成」の失敗は「昭和」の失敗に起因しており、ただ単に戦後日本が「昭和」から「平成」に至るまで一貫して失敗の連続としてあっただけではないのか、とも著者はいう。

ここに至って時代を「昭和」や「平成」の元号で区切って認識・評価する妥当性、そもそもの「平成史」や「平成時代」の議論の立て方そのものに対する疑義が生じてくる。何となれば、「平成時代」という新書を執筆した著者みずからが皮肉にも本書の中で指摘する通り、「昭和」や「平成」のような天皇という一人の人間の即位と退位(死去)の人生の区切りが「××時代」という歴史的な単位になると考えること自体が根拠なき幻想であり、誤りであるとする。にもかかわらず、現代日本では「平成」が終わる今、「平成時代とは何であったのか」を語る幾多の言説が流布し、本書もその一冊を成している。「これは本を売らんがための策略なのか」とさえ著者は述べる。「平成時代」の著者・吉見俊哉は、「平成の失敗」の歴史を著しながら「平成史」という立論の前提を疑う深さの思考にまで達しているのだ。

日頃より社会学者の吉見俊哉の著作をほぼ全て読んでいた私には、岩波新書「平成時代」は吉見の普段の力量やこれまでの仕事と比べて明らかに出来が良くないと思えた。吉見が自身で特に書きたいわけではないのに、「平成」という元号が変わる節目に岩波新書編集部からの企画発注を受けて、また新書が効果的に売れる発売日のタイミングをはかり、そこから逆算して(おそらくは)かなりの短期間の厳しい締め切り期日の中で、相当な無理を聞いて突貫工事的に一気に仕上げたような本書の書きぶりである。しかも本新書「平成時代」は、「平成」という元号区切りで時代を語ることの前提に、著者の吉見が本当は納得していないフシが本文記述から一貫して暗に感じられる。

岩波新書の赤、吉見俊哉「平成時代」は、そうした著者の側の「実のところ、平成回顧企画に乗り気ではない」にもかかわらず、出版社からの無理筋の発注仕事を引き受けた著者・吉見俊哉の執筆の際の、ほろ苦さも味わって読まれるべき新書の書き仕事であるように思う。